1964年、「東京12チャンネル」(現在のテレビ東京)に開局とともに入社。
それからドキュメンタリー構成者として活動をスタートさせると、以降、50年以上、ドキュメンタリー作家、ジャーナリスト、評論家、ニュースキャスターと様々な分野で才能を発揮。
現在も常に積極的に活動している、田原総一朗(たはら そういちろう)さん。
無駄のないトークといい、知識といい、経験といい、カッコいいですよね!
今回は、そんな田原さんのご活躍されています娘さんやご家族、経歴などなどを調査してみました!
Contents
田原総一朗氏の娘さんたち
田原総一朗さんの子供は2人の娘です。
お二人ともかわいいですね!
長女はテレビ朝日のプロデューサー
長女は1963年生まれで、名前は敦子さん。
敦子さんは学生時代から、旺文社・朝日新聞社などで執筆活動を始め、1986年にテレビ朝日に入社。
『スーパーモーニング』、『テレメンタリー』などの番組ディレクターとして活躍。
その後は『徹子の部屋』、『世界の車窓から』のプロデューサーを務めていました。
ちなみに田原さんによると、敦子さんは赤ちゃんの頃、妻の末子さんが母乳を飲ませた後、抱いていれば眠っていたそうですが、布団に寝かせようとすると途端に泣き出してしまい、いつも抱いていなければならなかったそうです。
田原さんは末子さんと、
銭湯に置き去りにして金持ちに拾ってもらおうか
なんて冗談をよく言い合っていたそうですよ。
どこの赤ちゃんも同じですよね!
次女は田原さん自身の秘書
次女は田原さんのマネージャーを務めていたようです。
また、次女は1966年に誕生した眞理さんで、現在、田原さんの秘書をしているそうです。
長女の敦子さんとは違い、全く手のかからない子供だったんだとか。
ちなみに、2人目の妻・節子さんとの間には、子供はいないそうです。
田原さんの先祖について
田原さんの父方の先祖は、代々「鉄惣(てっそう)」という鉄くず屋を経営されていたそうです。
彦根藩の武士たちの、鎧、兜、刀などを買い取って外国に売っていたんですね。
しかし祖母・田原志げさんのお兄さん・田原捨吉さんの代で、鉄くず屋は廃業。
神奈川県横浜市で生糸商を営み、ドイツの生糸商の日本での番頭役をするようになったそうです。
その後、志げさんが、孫助さん(田原さんの祖父)と結婚。
孫助さんが婿養子(父方の祖父・孫助さんは、母方の田原家の婿養子となってたんです)となると、近所の百姓たちが蚕(かいこ)を飼って作った生糸を集め、横浜の捨吉さんが営む商店まで運ぶ仕事をしたそうです。
そして、孫助さんと志げさんの間には、三男三女、計6人の子供が誕生。
1902年に誕生した末っ子が田原さんのお父さん、英次郎さんなのだそうです。
父親・英次郎さんは女性にモテた?
父親の英次郎さんは、とても器用で、絵を描いたり楽器を弾いたりブロマイドを手作りしたりしていたそうです。
バイオリンや大正琴まで演奏できるなんてすごいですよね。
社会人の野球チームを作り、プロ野球選手のようにユニフォーム姿で撮影した写真をブロマイドにしたりしていたとのこと。
(そのブロマイドにアルファベットでサインするなど、田原さんいわく、お父さんは「見栄っ張りで、脳天気」なところがあったそうです)
そんなお父さんは、子煩悩(ぼんのう)で、人間的にはとても良い人だったそう。
しかし、おっちょこちょいの一面も。
田原さんの小学校の入学式のこと、入学式で着る服と帽子を買って来てくれたそうですが、それは、慶応幼稚舎(小学校)の制服だったそう。
田舎では、誰も知らない学校の制服だったため、田原さんは、恥ずかしくて着れず、お父さんと大ゲンカ。
最後まで「嫌だ」と言い張って、結局着て行かなかったそうです。
ちなみに、お父さんとお母さんは、お見合い結婚。
お父さんはハンサムで、とても女性にモテたとのこと。
残念ながら、田原さんはお父さんではなく、お母さんに似たそうです(笑)
でも田原さんもハンサムだと思いますよ!
ちなみに、ある日のこと、田原さんは幼稚園の先生から「お父さんに渡してください」と手紙を渡されたことがあったそうですが、これはお母さんに渡した方がいいと思い、お母さんにその手紙を渡すと、そこには、
「日曜日の朝〇〇時に駅の△△で待っている」
と、デートの約束が書かれてあったそうで、このことが原因で夫婦ゲンカになったこともあったそうです(笑)。
母親・登志江さんについて
一方、田原さんのお母さん・登志江さん。
実家が製鋼工場を営んでいたそうですが、登志江さんのお父さん(田原さんのおじいさん)は、製鋼工場を始める前は、小学校の教師をしていたそうで、その影響か、登志江さんは、小学校卒業後は、クラスの女子でたった一人、女学校に進学するほど、勉強熱心だったそうです。
また、母方の親戚には教師が多く、学歴も高かったようです。。
登志江さんの従兄弟には、朝日新聞の論説委員や大阪本社編集局長を経て、専務取締役を務めたジャーナリスト・秦正流(はた しょうりゅう)さんや、JTBの副社長を務めた、秦正宣(はた しょうせん)さんなどがいるそうです。
そんなお母さんはやはり、子供たちへの教育も気合いが入っていました。
田原さんは、お父さんには一回もみてもらったことがなかった勉強は、いつもお母さんにみてもらっていたとのこと。
田原さんが中学生になっても、勉強している間は夜もずっと横にいて起きていてくれたそうです。
そんなお母さんは、やはりかかあ天下。
というのも、お父さんは、お母さんに終始、尻に敷かれっぱなしだったそう。
末弟を出産してからは体調が悪く、それ以来お父さんが晩御飯のおかずを買いに行っていたそうですが、お母さんは、しばしば、お父さんの買ってきたおかずが気に入らず、
「返しに行け!」
と言い、お父さんは、すごすごと返しに行っていたそう(笑)。
その姿を見て、田原さんは、幼いながらもずっとお父さんを哀れに思い、同情していたのだそうです。
田原総一朗のプロフィール、学歴・経歴
名前 田原総一朗
生年月日 1934年4月15日
出身 滋賀県彦根市
身長 166cm
所属 ブルーミングエージェンシー
小学校・彦根市立城東国民学校、彦根市立佐和山国民学校
中学校・彦根市立東中学校
高校・彦根東高校
大学・早稲田大学
趣味・電話、旅行
岩波映画製作所、テレビ東京を経て、’77年フリーに。
現在は政治・経済・メディア・コンピューター等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。
テレビ朝日系で、
’87年より『朝まで生テレビ!』(毎月最終金曜25:00~28:00)
’89年より『サンデープロジェクト』(毎週日曜10:00~11:45)
に出演。
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓いたとして、’98年ギャラクシー35周年記念賞(城戸賞)を受賞。
’02年4月より母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講、塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生たちの指導にあたっている。
’05年4月より早稲田大学特命教授。
主なメディア出演
【TV】
<テレビ朝日>
『朝まで生テレビ!』
『サンデープロジェクト』
【ラジオ】
<文化放送> 「田原総一朗オフレコ!」(毎週月曜21:00~21:30)
【雑誌】
『田原総一朗責任編集 オフレコ!』(アスコム)
週刊朝日『田原総一朗のギロン堂』(朝日新聞社)
月刊BIG tomorrow『現場主義!』(青春出版社)
月刊リベラルタイム『this Month!』(リベラルタイム出版社 )
週刊読書人『田原総一朗の取材ノート』(読書人)
【WEB】
日経BPネット コラム「政財界ここだけの話」
ネットラジオ「田原総一朗のタブーに挑戦!」(毎週木曜更新)
【映画】
『あらかじめ失われた恋人たちよ』(‘71年)監督。
生い立ち
田原さんは、父・英次郎さんと母・登志江さんのもと、4人兄弟(弟2人妹1人)の長男として生まれる。
「田原総一朗」は本名で、一家の長男ということで、「総一朗」と命名。
実家は彦根城の城下町(彦根城から1.5キロ南に下った滋賀県彦根市元岡町)です。
幼い頃は、お手伝いさんが一緒に暮らす2階建ての母屋と、2階建ての離れのある大きな家で何不自由なく暮らしていました。
父親は絹糸問屋から、紐の工場を経営していたので、子供の頃は裕福だったんですが、父親が商売が下手で、だんだんと生活は貧しくなっていったとのこと。
小学校1年生のときに戦争が始まり、終戦は5年生のとき。
敗戦まで田原総一朗さんは軍国少年で海軍に憧れ、海軍兵学校を目指していたとのこと。
5年生の1学期までは教師に、
『アジアの国々を独立させるための正義の戦争だ』
と教えられていましたが、敗戦後の2学期には、
『あの戦争は、やってはならない戦争だった。間違いだった』
と正反対のことを言われ、偉い人の言葉は信用できないと常識を疑う原点になったといいます。
中学時代は野球部に所属。
レギュラーでポジションはサード。
高校は、滋賀県彦根市にある男女共学の県立、彦根東高校(現在の偏差値は68)に進学。
高校でも野球部に所属するも、レギュラーにはなれず、高校2年生の1学期に退部。
義務教育を終えたら働くものだと思っていたそうで、高校に入学後は家庭教師をして学費を稼いでいたそうです。
野球部の他に美術部と生徒会にも所属。
中学のときには絵の展覧会で入選をたこともありましたが、高校で周りの人の作品を見て、自分の絵は『絵もどき』だと感じ挫折。
両親は高校卒業後は実家から通える京都大学や滋賀大学に入り、バイトをして稼ぎを家に入れてほしいと希望していたそうです。
田原さんは当時、作家を目指していて東京の私大を目指していました。
そのため両親と喧嘩。
最後は東京の私大に行かせる代わりに学位費は自分で稼ぎ、実家にも仕送りをすることを条件に上京を許されたといいます。
上京後、JTBに入社し働きながら、翌年に夜学の早稲田大学第二文学部日本文学科に入学。
大学ではて同人誌サークルに入り、作家を目指し文学賞に何度も応募するも全滅。
その頃、石原慎太郎さんや大江健三郎さんの本を読み、『僕は作家になれない』と思い挫折。
作家を挫折後、作家じゃなければマスコミかなと考え、大学をもう一度受験し、早稲田大学第一文学部国文科に再入学。
学習塾を経営し、大学生20人ほどの生徒に教えて収入を得て、実家の仕送りも続けていたそうです。
すごいですよね!
努力といい、行動力といい、やっぱりちがうなぁ‥。
で、1960年、25歳のとき卒業しました。
ディレクターからジャーナリストへ
田原総一朗さんはジャーナリスト志望だったため、大学時代に朝日新聞やテレビ朝日、NHK、東京新聞などをマスコミを手当たり次第に受けますが全部不合格。
大学卒業後はやっと合格した岩波映画製作所に入社します。
岩波映画製作所ではカメラマン助手をされていたとのこと。
1964年、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に開局の1ヶ月前に入社。
ディレクターとしてドキュメンタリー番組を手がけました。
日本テレビ、NHK、TBSなどはおもしろいドキュメンタリーを放送していたので、闘争心を燃やし、張り合うつもりで、いかに他とは違う危ない番組を作るかを考えていたそう。
制作予算は他局の3分の1だったといいます。
当時、開局したばかりの東京12チャンネルは『番外地』と言われるインディーズ的存在でした。
田原総一朗さんはそれを逆手にとり、『過激な題材』を元に、
『やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する』
という手法で番組を制作し話題となりました。
1977年1月に東京12チャンネルを退社。
フリーランスとなりジャーナリストに転身。
雑誌の連載や『文藝春秋』での田中角栄インタビューなどで徐々に知名度を上げ、1987年4月から『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)の討論の司会進行に就任。
1989年4月から『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系)が放送開始し討論コーナーの司会・出演を務める。
同年から、テレビ朝日系の選挙特別番組『選挙ステーション』第2部の討論コーナーで司会をも務めています。
田原総一朗さんの最初の妻・末子さん
田原総一朗さんは2度結婚しています。
最初の妻は3歳年上のいとこの末子さん。
末子さんとの馴れ初めは?
田原さんは、1960年11月3日、3歳年上の従姉妹、植村末子さんと結婚。
田原さんは、1953年、作家を志して上京した際、台東区上野の神吉町にあった、伯母さん(お父さんの一番上の姉)の家に下宿させてもらっていたとのこと。
その伯母さんと伯父さんの末娘が末子さんだったそうで、素直で性格が明るく、年上でも決して威張ったりせず、気軽に話せる末子さんに好感を持ったのがきっかけだったそうです。
そして、田原さんが26歳のときの結婚。
周囲の反対を押し切って行った結婚だったそうです。
末子さんに乳ガンが発覚
田原さんが「東京12チャンネル」の報道局から制作局へ左遷(させん)された頃、末子さん(当時44歳)の乳ガンが発覚。
末子さんは、国立ガン研究センターに入院。
ガンの摘出手術を受けると、幸い、ガンは早期だったため、執刀した医師から「5年は大丈夫」と言われたそうです。
しかし、たった2年半で、ガンが再発していることが検査で判明。
今度は慶應義塾大学病院に入院し、2度、手術を受けるが、この時すでにガンは体のあちこちに転移していたそう。
「できるだけのことをします」
と言う、外科部長のアドバイスに従い、放射線治療を受けました。
当時は、まだ抗ガン剤もなく、乳ガンの専門医もいない時代。
放射線治療のほかにも、様々な治療(丸山ワクチン、リンパ療法など)を末子さんに受けさせたそうです。
9年間の闘病生活の末、1983年9月、東京都板橋区の病院で末子さんは54歳という若さで亡くなりました。
ちなみに末子さんは、田原さんと村上節子さんの関係を知っていたそうです。
でも田原さんに対して怒ったり、冷たい態度をとったりすることは一切なかったうえ、2度の手術を受けて治らなかったにもかかわらず、泣き言一つ言わなかったそうです。
末子さんも寛容な方だったんですね…。
2番目の妻・村上節子さん
再婚相手は2歳年下の節子さん。
日本テレビの「奥さま こんにちは」という15分番組の構成のアルバイトをしていた時に、日本テレビのアナウンサー・村上節子さんと出会います。
田原さんの、節子さんに対する第一印象は、
ずいぶん、しっかりした女性だな
だったそうです。
節子さんは日本テレビにアナウンサーとして17年、その後はCMプロデューサーとして10年勤務。
田原さんは、節子さんと話が合い、相性が良いと感じていたそう。
「人間とは何か」「人が生きるとはどういうことか」「何のために生きるのか」
などといった哲学的なことを話すのが好きだった田原さんですが、節子さんもそのような話に興味をもっていたそうです。
妻子がある身でありながら、日本テレビのアナウンサー・村上節子さんにどんどん惹かれていった田原さん。
時系列が難しいのですが、最初の妻の末子さんはこの時闘病中でした。
節子さんも夫と娘が1人いました(節子さんは前夫と離婚し再婚だったそう)。
そうです、お二人はダブル不倫。
節子さんと二人きりで旅行
節子さんさえ理解してくれれば、世間が理解してくれなくてもいいとまで思うようになっていったという田原さん。
節子さんと二人で旅行していました。
節子さんも、この頃には、仕事も家族も捨てていいという状態にまでなっていたそうです。
旅行の翌日には、またいつも通り会い、1日置きにデート。
電話は毎日かけ合うという関係が続いたそうです。
妻・末子さんに対してはもちろん、節子さんにも夫と娘がいたことから、さすがに罪悪感を持っていたそうで、何度もやめようと思ったそうですが、節子さんが「自身が破滅してもよい」とまで思うようになったことから、やめることができなかったといいます。
節子さんと再婚するも…
妻の末子さんがガン闘病中も、村上節子さんとの不倫をやめられず、末子さんの死から5年後(1989年、田原さんが55歳の頃)に節子さんと再婚。
田原さんは節子さんからサポートされながら仕事を続けます。
1998年の秋、日米ジャーナリスト交流会に出席するため、節子さんとともにアメリカ・ワシントンに行ったそうですが、そこで、節子さんが胸の張りを訴え、帰国。
病院で検査を受けると、「炎症性乳ガン」という悪性のガンで、長く持っても半年であると、余命宣告をされました。
そして節子さんは入院。
放射線治療を受けると、ガンを小さくすることに成功したそうですが、入院から4ヶ月半後の1999年には、医師の提案により、乳房を全摘出する7時間半に渡る大手術をします。
手術は無事成功するも、リンパ腺に残っているガンを除くため、その後も抗ガン剤治療を受け続けた節子さん。
半年後、ようやく退院します。
しかし、2000年4月には、節子さんのガンは脳に転移し、さらに骨にまで転移。
節子さんは、東京女子医科大学病院に入院し、骨の一部を切り取る手術を受け、その後、退院するも病状は悪化し、車椅子の生活を余儀なくされたのだそうです。
節子さんは再発転移を繰り返し、そして2004年8月に多臓器不全のため亡くなりました。
妻を2人ともガンで亡くしたのですね。
田原さんの現在の彼女とは?
田原さんは現在、食事をしたり、デートをする彼女がいるそうです。
1950年4月、彦根東高校に進学後、小説を書く生徒の集まり「文学会」というサークルを結成していた田原さん。
その「文学会」の仲間たちとは、高校卒業後も同窓会等で集まり、ずっと仲良しでいたそう。
実は、当時その中に好きだった女性がいたそうですが、告白することができなかったとのこと。
しかし70歳を過ぎてからついに告白することができたのだそうです(その彼女もパートナーを亡くし、独身に戻っていたそうです)。
「くちゃくちゃ」と音がする原因とは?
田原さんは、最近お話ししている時、
「くちゃくちゃと音がする」
と、ネット上で言われています。
「朝まで生テレビ!」のオンエアー中、田原さんが話をしている時に口をくちゃくちゃさせる音が入り、
「気になる」
「聞き苦しい」
と感じている視聴者が多いというのです。
これは「入れ歯」の音だそうですよ(笑)。
マイクの質が良くなってきているので、わずかな音でも拾ってしまうんでしょうね。
しかし、田原さん本人は全く気にしていないようですね。
この問題を解決するには、入れ歯を自分に合ったものに作り変えるだけだそうです。
滑舌が悪いのは加齢のせい?
インターネットテレビ「ABEMA Prime」に出演した時のことですが、共演者のお笑いタレント、パックン(パトリック・ハーランさん)が、
仕事が大好きだというのはわかるが、それ以外に、食欲とか性欲とかはあるのか。
若い頃と比べて、耳が遠くなったとか、滑舌が少し悪くなったとか、記憶力が落ちたとか、そういうことを悔しく思うことはないのか?
このように滑舌が悪くて聞き取れないことについて尋ねると、
田原さんは、
僕は女房が2人ともガンで亡くなっているが、今は彼女がいる。
高校の同級生で、彼女も夫を亡くしている。
月に何回か食事をするし、デートが楽しい。
確かに滑舌は悪くなったし、物忘れも激しくなった。だけど全然悔しくはない。誰も“番組を辞めろ”とは言わないから楽しい
と、答えています。
滑舌が悪くなったこと、また、それが加齢からきていることは自覚しているようですが、ネット上で話題になっていることは、別に気にしていないようですね。
田原総一朗はメールなどしない?
私は、人と話すことがとにかく好きなのですが、何か聞きたいことがあればすぐにその人に電話をかけてしまう。近くに住んでマネージャーをしてくれている娘からも、会うたびに“パパの携帯電話の発信履歴を見るのが怖い”と恐れられるくらい、しょっちゅう誰かに電話をかけています。
最近の若い人はメールやメッセージアプリばかりで電話をほとんど使いませんよね。
田原さんは、せっかちなので返信を待つなんて悠長なことはできないとのこと。
だから、一日に何度も人と電話で話すことになるんだとか。
もちろん、人と直接会って話すのも大好きで、新型コロナウイルス感染症が流行する前、昼食は近所の、テレビ朝日社員の玉川徹さんの行きつけのソバ屋で取ることが多かったそうです。
休みの日など、店に行けば玉川さんに会えるから、話がしたい一心でソバ屋に通ってたとのこと。
毎回同じメニューを頼んで、食事なんて二の次で議論ばかりしていたそうです。
田原さんの若い頃の画像
フリージャーナリストになって4年目の頃、1981年で田原さんが47歳の頃の画像です。
テレビ東京時代?の画像↓
以上、人気ジャーナリスト・田原総一朗さんについて少しお伝えさせて頂きました。
現在88歳となっても積極的に活動されているすごい人ですね。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました!